第81回 院長の医学ちょっと良い話コラム 令和7年12月11日
"Is there a doctor on board?"
インド・ニューデリー行き航空便内で、キャビンアテンダント(CA)の一言


行きの機内で美味しいビールを頂きました。機内は低酸素のため、酔います。気分が悪くなり、洗面室に移動していた時から意識が無くなり、気がついたらCAの休憩室でした。頭もとで、こうささやいていました。「お医者さん、探そうかしら。」私は慌てて、「大丈夫ですから。アイアム、ドクター。」と、どうせ探しても後輩が来るだけですから。その後、2時間ファーストクラス並みに横になり、CAさんと交流を深めニューデリーに無事到着しました。
この事件から、JAL, ANAの医師登録制度 Doctor on board を知りました。知りましたが、未だ加入しておりません。調べますと、国際線で機内に医師が乗っている確立は何と55%だそうです。そのうちアナウンスに応じる医師は20%らしいです。
機内で急病人が出たら、何ができるでしょうか?私は整形外科医ですから、骨折は診れても、意識消失は機内に何の医療機器があるかわからず自信がありません。ですから今は、1回目のアナウンスはちょっとだけ待って、2回目がかかれば迷わず名乗り出る様にしております。わかっています。最初から行くべきですよね。
第80回 院長の医学ちょっと良い話コラム 令和7年12月11日
吉本新喜劇座長 アキ

今後も喜怒哀楽いろいろなお話をさせていただきますので、よろしくお願いします。
画像は「アキ プロフィール|吉本興業株式会社」より引用
アキさんは吉本新喜劇の座長をされています。こわもてですが、本当に面白い。新喜劇、見られたことありますか?借金取りのやりとりで、辻本さん扮する茂造が「スミマセン」って謝ったら、アキが「いぃよぉ〜」と許す、このワンパターンが実に楽しんです。
何でこんなに面白いのだろう?その答えはアキさんのブログに書いてありました。アキさんは40年間の芸人下積み生活の後、吉本新喜劇に入ったそうです。そこで感じたのは、チームプレーでした。「舞台の持ち場はいろいろあるけど、どこにいても、どのポジションにも意味があって、同じ目標に向かってラストまで一生懸命仲間と力を合わせるってことが大事と思う。」1人1人が内側から何かを出して、他のメンバーの動きや言葉をつなげて、面白いものにしようとする、なんて楽しいんや。
第79回 院長の医学ちょっと良い話コラム 令和7年9月29日
「少し偉くなったからって、背伸びをするな。すぐにみんなから見透かされる。」
第64代内閣総理大臣 田中角栄氏

画像は「田中角栄 生誕100年 | 昭和偉人伝 | BS朝日」より引用
私は病院長になって6年目になります。最初に心で決めていたのは、田中角栄氏のこの言葉です。角栄氏は44歳で大蔵大臣になり、その時の就任時にこう言われました。有名な言葉なので、年配の方はご存知かもしれません。
「自分は高等小学校(現在の中学校)卒業である。官僚の諸君は日本の秀才だ。自分は素人だが、苦労は諸君よりもいっぱいしてきた。これからはお互いが良く理解し合って、一緒に仕事をしていこう。だから大臣室の扉は常に開けておく。誰でも訪ねてくれ。上司の許可はいらんから。最後の責任は全て俺が取る。」
医療の世界は縦社会です。でも上司になったからと言って、偉くなったわけではありません。むしろ、少し間の抜けた態度で、後輩の安心感を持ってもらった方が仕事はしやすい。そして、いざというときに実力を見せると、職場から尊敬のまなざしで見られます。角栄氏はそうやって総理大臣になったのでしょう。最後はかなり良くなかったけど、角栄氏の言葉は今でも生きています。
角栄氏をまねて、院長室のドアはいつも開けています。夏は冷房が効かず熱いです。冬は暖房が逃げて寒いです。我慢していますが、誰も入って来てくれません。私はまだまだです。
第78回 院長の医学ちょっと良い話コラム 令和7年9月24日
「子供の時、自分に野球を教えようとして庭に連れ出した父こそ、勇気のある人間だ」
大リーグでノーヒットノーランを達成したジェームズ・アボット投手(1967-)


画像引用
(左)https://thisdayinbaseball.com/tag/september-4/page/6/
(右)https://www.wikiwand.com/en/articles/Jim_Abbott/
アボット選手の名前を聞いたのは久々でした。2025年夏の甲子園で大活躍した県立岐阜商業高校の横山温大(はると)選手は、生まれつき左手がありません。彼は人の何十倍も野球に打ち込み努力してきたに違いありません。打つ方も大変ですが、投げる時にグローブはどうしていたのでしょうか?彼はアボット投法をまねたと述べています。
アボット選手は、横山君と同じ様に生まれつき右手がありませんでした。子供の頃は手の事で、ずい分いじめられてきたそうです。そんな時、父親が「野球をしないか」と声をかけたそうです。その後、アボット選手は球を取ったグローブを瞬時に右脇に抱えて外し、左手でボールを投げ返す技術を身に着け、何と大リーガー投手となり、1993年9月4日クリーブランド・インディアンス戦でノーヒットノーランを達成しました。
彼はこう言います。「障がいが何だっていうんだい?だからって何か出来ないことがあるとでもいうのかい?私は自分が障がい者だと思ったことはない。」そして、こう続けます。「自分の思考で可能性を狭めることなく、無限の可能性だけがあることを感じてください。」
本当は、アボット選手は父親の一言が無ければ、自分の可能性を狭めたのかもしれません。父親も彼がここまで野球選手として活躍できるとは思っていなかったでしょう。人間の可能性は無限です。横山君、がんばれ、応援しています。
第77回 院長の医学ちょっと良い話コラム 令和7年7月10日
全盲のギタリスト 田川ヒロアキ

2025年7月5日 田川ヒロアキ下関凱旋講演より
先日、田川ヒロアキさんのコンサートへ行きました。来年、長門総合病院主催でコンサートをしていただくので、そのご挨拶にと伺いました。
私の障がい者への気持ちは間違っていました。それは彼が一曲目を演奏しはじめた時に気づきました。何だろう?心が突き上げられ、どうしても涙があふれて止まりませんでした。
ヘレン・ケラーはこう言いました。A handicap is inconvenient, is not a misfortune, though. 「障がいは不便です。でも、不幸ではありません。」(院長カフェ42)そうなんです。目が不自由でも、普通なんです。ミュージシャンとして幸せなのです。我々が、「気の毒だな」と思う必要なんか無いんです。
会場は満席の大盛り上がりです。実際にお会いするのは初めてですが、完全にかっこいいミュージシャンでした。最後にSkyという曲の演奏が始まりましたが、歌う直前にふと彼はこう言ったのです、「空を想像してこの曲を作りました。だって俺は生まれて1回も空を見た事無いから」。以前なら私は、「田川さんに一度青い空を見せてあげたい」と思ったでしょう。でも、それはおせっかいです。田川さんの心の中には、水平線まで広がる真っ青な空があり、それを見ながらSkyという楽曲を作ったのですから。
第76回 院長の医学ちょっと良い話コラム 令和7年5月27日
「自分の寿命を、死んでいきそうな子どもたちの命に代える」
ミャンマーで子供の命を助ける小児外科医 吉岡秀人 医師

写真はcoFFee doctors HP より引用
院長カフェ73回で、私は「助けられなかった少女の命と自分の命を代えても良いと思っている」と書きました。同じ思いで診療にあたっている吉岡先生のお話を聞き、深い感銘を受けています。先生は、30年もの間、ミャンマーの子供たちの手術をほぼ無償で行ってきました。主に、難治性の先天奇形や小児がんを診療されています。医療には限界があり、助かる命もありますが、亡くなっていく命もあります。遠いミャンマーで、吉岡先生が目指す医療は、患児がたとえ亡くなったとしても、「私は、生まれてきた価値があった」と思えること。
人は、人に大切にされるだけで、「生きてきてよかった」と思えます。だから、治せても治せなくても、貧しくても貧しくなくても、患者さんには大切に接する、そんな医療をずっと続けていたいと、吉岡先生は言われます。
第75回 院長の医学ちょっと良い話コラム 令和7年5月27日
「間違った正義を貫くことが 一番危ないんです。」

数々の難事件の解決にあたり、天樹は「正義とは何か」という問いを、我々視聴者に投げかけてきます。とても重い問いです。
自分が正しいと思う事は、自分にとっては「正義」です。しかし、他人から見ても常に「正義」なのか?そこに、自分勝手に思うおごりは無いのか?ここは重要な点です。一旦、自分の正義を見直す心の余裕があれば良いのですが、決めつけて突き通せば周囲は危険にさらされます。
第74回 院長の医学ちょっと良い話コラム 令和7年5月7日
「病院の窓は、大きさも形もみんな同じ。命の重さも皆同じなんです。」
SP〜警視庁警護課 竹内孝治刑事(渡瀬恒彦)
8月15日を迎え思う事

渡瀬恒彦さんはいろいろな刑事ドラマに出演しておられます。残念ながら、数年前にがんでご逝去されました。大御所にしては滑舌が良くなく、そこが庶民的で親しみがあります。これは、『SP〜警視庁警護課』に出演された時の竹内刑事役の言葉です。確かに病院の窓は皆同じです。そこで一生懸命病気と闘っている患者さんの命は皆同じです。優劣は無く、皆大切な命です。
毎年、夏が近づくと思う事があります。患者さんだけでなく、人間の命の重さは世界中で平等であるべきです。でも、海外に目を向ければ、命の重さは何と軽い事でしょうか。戦争はいまだ続いています。長距離ミサイルのボタンを押せば、着弾する場所の多くの人々が命を失う事はわかっているはずです。年齢も名前も誰かも知らない人の命を奪うことをわかっているはずです。
ご高齢の方々は太平洋戦争を経験され、戦時中の命の重さを知っておられます。我々の世代は戦争を知らずに育ち、人の命の重さを軽視しがちなのかもしれません。今年も8月15日を迎えるにあたり、もう一度命の重さを感じるべきです。
第73回 院長の医学ちょっと良い話コラム 令和7年4月30日
「大丈夫だよ、きっと治るからね。」
臨終を迎えた女児にかけた 最後の言葉

若くして命を落とすことほど悲しいことはありません。でも医学には今でもなお限界があるので、仕方のない運命もあります。先日、聖路加国際病院の名誉院長だった日野原重明先生の「生涯忘れなかった16歳女工の魂の叫び」という記事を読み、とても共感しました。
大学病院勤務の頃、ずっと前の事です、ある女児を看取りました。彼女は入院する時、私にこう言いました。「病気は悪いかもしれないけど、絶対助けてね。」治療は、化学療法、手術、そしてまた化学療法と、何か月もきつい入院生活に耐え、無事退院できました。でも、その後病気は再発し、菜の花が咲くころ天国へ旅立ちました。
私は治らないことを知りながら、最後まで彼女に真実を言えませんでした。医師の言葉が重いのはわかっています。「大丈夫だよ、きっと治るからね。」という私の言葉をご両親はベッドサイドで聞いていました。私は今でもこの言葉は間違っていないと思っています。彼女には病気が治れば楽しい人生が待っていたはずです。友達もいっぱいできたでしょう。それができないとは、私には言えなかった。彼女が知らなければいけない事実とも思いませんでした。
第72回 院長の医学ちょっと良い話コラム 令和7年2月10日
「がんと闘う気持ちは大切だけど、ずっと強い気持ちでいることは無理。その時に弱音は看護師さんに聞いてもらって、とてもありがたかったです。」

皆さんご存知の池江選手は、2024年白血病の細胞が消えた「完全寛解」となりました。16歳からオリンピックで大活躍して東京五輪では金メダルが期待されていましたが、18歳で白血病になり闘病生活に入りました。
白血病の化学療法は当院でもされていますが、とてもきつくしんどい治療です。昨日までの当たり前の日常生活や水泳練習が全て無くなります。この「当たり前の幸せ」は、病気にならなければ気づかない「幸せ」です。アスリートの池江選手は、若いのに背負うものが大き過ぎて本当にきつかったと思います。一生分の苦労をされた事でしょう。
私は、池江選手はやっと白血病を克服したのだから、もうこれ以上がんばらずに平穏に過ごされれば、と思ってしまいます。しかし、やはりアスリートなんでしょうね。思いは次のロス五輪へ向いています。この「もう一度泳ぎたいという希望があったからこそきつい治療にも耐えられた」と、ご本人も言われていました。「希望」は大切です。
患者さんが闘病生活を終えて退院される時、まず思い出すのは看護師さんの言葉なんですね。勿論主治医の先生の事も思われるでしょうが、まずは看護師さんやコメディカルの方々なんですね。「しんどいですか?」と聞かれるよりも、「しんどいよね。」と共感してもらう言葉がありがたかったと、池江選手は言われています。我々医師は、患者さんの弱音をじっくり聞いたりせず、共感の言葉も少なく、診療を最優先していることが多いかもしれません。この点は、大いに反省すべきと思っております。池江選手、一日一日を大切にがんばってください。
第71回 院長の医学ちょっと良い話コラム 令和7年2月7日
「パットの名手ほど、構えたらすぐ打つ」
クリス・コモ タイガーウッズの名コーチ
クリス・コモ氏は1977年生まれ、地元ロサンゼルスの大学で心理学を学び、弱冠20歳でゴルフのティーチング(教える)プロになります。けがをしてどん底にいたタイガーウッズのコーチとなり、復活を遂げ有名になりました。心理学を専攻していただけあり、選手の言葉をじっくり聞いてから適切な答えを出す傾聴の態度が、タイガーに安心感を与えたと言われています。
パターはゴルフで最も打数の多いクラブです。ゴルフをされる方ならご存知ですよね。カップへ打つ要素は2つ、方向と強さです。方向はボールに線が書いてあるので、曲がる方向の反対に向けて打てば良いだけになっています。後は自分の読み通りの強さで打つだけです。そこに迷いがあっては、たった50cmでもカップに入りません。
こんな事考えるのは私だけかもしれませんが、パターは手術に似ています。外科医は術前に真剣に綿密な手術計画を練ります。つまり、ラインをじっくり読むわけです。方向を決めれば、皮膚切開から創縫合まで一気にメスを走らせます。
構えたら、あせるわけでは無く、すぐ打つ。手術も同じで、同じ術式をするならば時間が短い方が良い結果になります。我々外科医にとって、「すぐ打つ」という意味は、術前の準備が完璧にできていて、迷いない自信があればこそできる匠の技なのです。そして、パットと同じで、メンタル(精神)にも通じています。今回も、ちょっと考え過ぎましたかね。
第70回 院長の医学ちょっと良い話コラム 令和7年2月3日
「人は人のために働いて支え合い、人のために死ぬ。それ以上でもそれ以下でもない。これは人間の仕事である。」
中村 哲 医師

第31回院長カフェでも書かせていただきましたが、中村先生は福岡出身で九州大学医学部を卒業されました。私も同郷であり、中村先生のご講演は何度か聴いたことがあります。朴訥な話しぶりながら、強いメッセージを覚えています。蝶が好きで、たまたまネパールへ蝶探しの旅をした時、現地の方が医師であることを知り診療を依頼されたそうです。その後、日本での医師生活をやめ、1983年からアフガニスタンで無償診療と水路の建設をされました。中村先生は、2019年12月4日、アフガニスタンで銃弾に倒れました。
最近、中村先生を偲んで映画が作られています。「医師 中村哲の仕事・働くということ」の中で先生は「働くとは何か?」「仕事とは何か?」を説いておられます。我々医療人の仕事は、まぎれもなく人のために働き支え合うこと。その神髄を貫いた言葉だと思いました。そして、映画「荒野に希望の灯をともす」では、先生がアフガニスタンの灯になったことが語られています。我々は、まさに生と死を分ける厳しい現場で仕事をしています。そこにどんなに小さくても良いから、自ら希望の灯をともし明るくしていきたいと思っています。
これからも、混沌とした時代の中で、ますます輝きを増す中村先生の生き方を学ばせていただきます。
第69回 院長の医学ちょっと良い話コラム 令和7年1月15日
「お前は長州人か?薩摩人か?違うだろう。お前は日本人じゃないのか。」
1866年 薩長同盟が頓挫しかけた夜、竜馬が泣きながら桂に言った言葉


薩摩Studentの面々(ロンドンで撮影、全員では無い)
参考 鹿児島国際大学ミュージアム調査研究報告16 2019年より
昨年12月に学会で鹿児島へ行きました。鹿児島中央駅を降りると、「薩摩Student」と呼ばれる若い19名の銅像があります。彼らは1865年ユニバーシティー・カレッジ・ロンドンへ留学しました。鎖国時の事ですから、これは完全に極秘の違法留学です。その2年前の1863年長州藩は、ロンドンへご存知の「長州Five」を送っています。
実は、彼らはロンドンで偶然出会っていました。驚いたでしょうね。当時戦争中の両藩ですから、最初はわだかまりがあったでしょう。しかし、次第にお互いを受け入れ、深く信頼していきます。でも、なぜ、彼らは仲良くなったのか?それは遠い異国の地で、「自分達は日本人だ」と感じたからです。母国日本よりも一足早く、ロンドンで薩長同盟が結ばれていたんですね。
竜馬のこの言葉を思い出しました。泣きながら叫んだ竜馬のこの一言で、薩長同盟は成立します。竜馬は故郷土佐を捨てた時から、自分は日本人だと意識していたのでしょうね。幕末から明治維新に向かう潮流を作った薩摩藩と長州藩、熱い思いを持った若者が、英留学から帰って明治政府をしっかり整えていきます。そんな熱い気概を、今の若い医師にも持ってもらいたいと願っています。今回も医学と少し離れてしまいました。
第68回 院長の医学ちょっと良い話コラム 令和6年11月13日
良寛和尚
江戸時代を代表する禅僧

良寛様は、江戸時代後期に越後に生まれました。先日学会で新潟へ行った時、宿泊したホテルに「良寛のことば」が掲げられており、新潟ご出身と初めて知りました。大変良い言葉でしたので、この写真を撮りました。
いくつか、私の反省を言います。あまりしゃべり過ぎないことです。適度が人に好かれます。多すぎると嫌がられ、友人が減ります。知らない事を知ったかぶりするのは良くありません。謙虚に、うそをつかず、正直に生きるべきです。挨拶は心を込めてすべきです。その一日がとてもすがすがしくなります。言ったことに責任を持ちましょう。特に、医療人の言葉は重たいと知るべきです。
第67回 院長の医学ちょっと良い話コラム 令和6年11月13日
「人が生きている間、もっとも大切なのは出処進退である。そのうち進むと出づるは人の助けが要るが、処ると退くは、人の力を借りずともよく、自分でできるもの」
河井継之助

学生時代、司馬遼太郎の「峠」に感銘し、何回も何回も読み直しました。主人公「河井 継之助」は全国的ではありませんが、ご存知の方もおられると思います。一度、お読みになられてはいかがでしょうか。
継之助は若い時に新潟の「峠」を超えて、いろいろな師匠の元へ留学します。幕府が倒れ、薩長の新政府軍が越後に攻めてきました。継之助がすごいのは、圧倒的に強力な兵器を準備しながらも、それを使わなくても長岡の人々が救われるように中立和平の道を目指した事です。しかし、時代はそれを許さず、壮絶な北越戦争に突入していきます。太平洋戦争を最後まで反対した軍司 山本五十六も同じ長岡出身で、継之助の思想を引き継いでいたかもしれません。
第66回 院長の医学ちょっと良い話コラム 令和6年8月27日
「我々が作る義足は、身体だけ支えるのではありません。心を支える足が作りたい。」
ガザ地区で、がれきから義足を作るサラハ・サルミさん(36)とムハンマドさん(25)兄弟
ガザ地区は戦火が激しくなるばかりです。爆発に巻き込まれ、1000人以上の子供が手足の切断を余儀なくされています。子供たちには何の責任もないのに、悲しいくらい悔しいです。
ガザに住むサラハ兄弟。兄は作業療法士、弟は技師として働いていました。目の前には数えきれない負傷者が苦しんでいます。そして、2人は周囲のがれきの山を見て「これで義足ができないだろうか?」と思ったそうです。手ごろな形の木や下水管の一部を使い、プラスチック部を火であぶって採型し足の断端に合う様にしました。
サラハ兄弟の義足は、確かに使い心地は良くないでしょう。でも、けがをした同胞の人々へのために、という気持ちは十分にこもっています。「けがをしていない自分でも苦しいのに、手足を失った人たちの絶望はもっと深いはずだ。心を支える足が作りたい。」サラハ兄弟が作った義足が、負傷者の心も支えられる様に祈っています。そして、患者さんがこの義足をはいて、パラリンピックの100m走を走れば、世界の人々の心も動かせると思います。一刻も早く無意味な戦闘をやめるべきです。
第65回 院長の医学ちょっと良い話コラム 令和6年8月20日
「ゴルフは、生きがいです。」





















































